そうてつばすろせん


旭3 横浜駅西口〜保土ヶ谷駅東口〜児童遊園地


児童遊園地 03.10.27
03.10.31限りで廃止。翌11.1からは横浜市交が引き継ぐ形で運行(53系統・横浜駅西口〜保土ヶ谷駅東口〜児童遊園地〜平和台)。


旭4 美立橋〜横浜駅西口・桜木町駅、二俣川駅北口〜保土ヶ谷駅東口ほか

2000.4.9 保土ヶ谷駅東口〜国立病院入口

二俣川〜保土ヶ谷間(保土ヶ谷線)は、1950(昭和25)年の再発足時に運行を開始した、現在の相模鉄道バスの中でも伝統のある路線です。その後、1955年には桟橋入口(県庁前)、横浜駅西口、1957年には桜木町駅までの運行を開始しました。
その後、保土ヶ谷駅西口経由便の廃止、二俣川駅〜左近山入口間の保土ヶ谷バイパス経由便の新設等がありました。1999年4月には、運行の大幅な見直しにより、二俣川駅〜県庁前間の運行取り止め、二俣川駅北口〜保土ヶ谷駅東口間、美立橋〜横浜駅西口・桜木町駅間という運行系統に変更されました。

この路線には、現在でも狭い道を走る区間があり、中でも高地〜左近山入口間では誘導員が添乗(乗務は美立橋まで)しています。他にも、うぐいす橋〜樹源寺間の東海道線ガード下へ直角に入っていく所や、保土ヶ谷駅〜ドンドン商店街間では狭いトンネルやカーブの連続する道、そして商店街の中を走っていきます。


(左)1992年 国立病院入口 1011 (右)1993年 久保町〜西久保町 2051

系統番号が付き始めた頃は、旭4…二俣川駅〜保土ヶ谷駅東口〜横浜駅西口、旭6…二俣川駅〜桜木町駅、旭7…二俣川駅〜県庁前という別々の番号でしたが、後にすべて旭4系統に変更されました。
また、1996年に横浜新道にかかる富士見橋とその周辺の道路が整備され、美立橋〜星川駅〜保土ヶ谷駅西口線が開設されましたが、経路のほとんどが違うのに旭4系統となっています。なんか、ヘン。
ちなみに、二俣川駅〜桜ヶ丘〜保土ヶ谷駅西口(以前は横浜駅西口)線は、当初からの旭5系統で運行しています。


浜4 横浜駅西口〜桜木町駅

2000.2.27 南浅間町 3310

地元路線その2。横浜〜桜木町というと、まっすぐ行くと2キロほどですが、元久保・清水ヶ丘などの住宅地を経由、うんと遠回りして行く約9キロの典型的なスキマ路線です。横浜西口・伊勢佐木町方面の行き帰りには便利なのですが、時間1本しかないのと終車が早いのが玉にキズ。

この系統は1962年(昭和37)に開設。当初は、岡野神社〜<平沼橋2号踏切(現跨線橋)>〜西区役所(西前町)〜<西前通り>〜藤棚という経路をとっていましたが、西前通りの一方通行規制により現行の経路(岡野神社〜南浅間町〜水道道)となりました。
また、開設当初には、横浜駅西口〜国立療養所(現国立病院入口)間の折返し便もあったようで、帰りのバスには客が避けて乗らなかったという話も残っています。それはなぜか?…国立療養所は別名「結核療養所」と呼ばれていました。病人が乗ったかもしれないバスは…といったワケで避けられたようです。結核というと不治の病といわれた、そんな時代があったワケです。
(参考資料:東久保町東朋会(自治会)50周年記念誌)

1980年からはナローバスが運行されています。水道道〜前里町4丁目間の狭隘路でのワンマン運転によるもので、これ以前は一般車による運行でした(1978年までは車掌乗務、それ以降は車掌廃止のため誘導員乗務)。車掌乗務時代は、客扱いは中央乗降口で行っていました。もちろん、扉扱い・運賃収受は車掌の仕事で、車掌台の前に四角い運賃箱と円筒の手動釣銭器を備えていました。末期の頃は、不慣れな客が乗車しようとして前扉に近づいても開かないため、戸惑うという光景がよく見受けられました。市内ではすでに前乗りが常識でしたからねぇ。
最近では、平日・土曜の始発1往復に、小型車(3101=綾瀬(営)の相模大塚駅〜鶴間駅線で使用されていたが、廃止に伴い転属)が使用されています。

2000年4月、横浜営業所管内のダイヤ変更と併せ経路変更が行われ、従来の岡野町〜平沼高校前〜南浅間町から鶴屋町3丁目〜浅間下〜洪福寺という経路になりました。ダイヤ変更は本数減を伴うもので(平日15→13本、土・休13→10本)、始発の繰り下げ・終車の繰り上げで2本減、土・休はさらに日中1本減という、改悪ともいう変更になってしまいました…(怒)。

バス停各種

相鉄単独の停留所ポールは、白百合型といわれるものが主流ですが、いまだに交換されず旧式のものを使っている停留所も残っています。もっとも、白百合型を使っていても上下共用というところが結構ありますが…。

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浜16 横浜駅西口〜和田町駅〜西原住宅、和田町駅〜日本カーリット・鶴ヶ峰駅
浜19 和田町駅〜新桜ヶ丘団地

2000.1.22 西原住宅(折返場) 1117

この系統…市沢線は、1954年(昭和29)に市沢町〜藤棚〜桟橋入口間の路線免許を取得、運行を開始しました。当時、東海道線の横断は西横浜駅際にあった踏切を渡っていました(のちに横浜駅西口を経由)。その後1958年(昭和33)に市沢町〜横浜駅西口、1962年(昭和37)に和田町駅〜西原住宅、1965年(昭和40)に横浜駅西口〜西原住宅、和田町駅〜日本カーリット、1976年(昭和51)に和田町駅〜新桜ヶ丘団地が運行を開始しています。現在、市沢町発着はなくなっています。

路線は、和田町駅前の「水道道」から、山の上にある西谷浄水場への道を通ります。和田町へ向けて走行すると、浄水場前から急な下りになります。さえぎるものがないので、このあたりからの夜景はなかなかのものです。市沢下町付近で環状2号線と交差しますが、十数年前にこのあたりまで通っていたものとしては、なんか違う場所のような気がします。市沢町交差点で、西原住宅方面は右、新桜ヶ丘方面は左へ曲がります。以前あった市沢町の折返しは、この交差点に出入りする一方通行の路地を使っていました。西原住宅の折返場は停留所の先の坂を少し下ったところにあります。このあたりの県営住宅もだいぶ建て替えが進んでいるようです。

日本カーリット行は浄水場裏から分岐、尾根づたいにまっすぐ進んで、突き当たる日本カーリットの門の前で折返します。

2000.1.22 日本カーリット 1112
現在、平日・土曜の1往復のみの運行となっています。(和田町駅発:平日12:35・土曜12:25)

日本カーリット(株)保土ヶ谷工場は、1919年(大正8)にこの地に創立された火薬工場で、戦時中は軍の爆弾等の製造工場として使われていました。十数年前、この近くまで通っていたころは、火薬の試験のための爆発音をよく聞きましたが、最近はどうなんでしょう。

2000年4月、横浜営業所管内のダイヤ変更とともに一部路線の改廃が行われ、和田町駅〜日本カーリット間の運行を取りやめました。また、和田町駅〜鶴ヶ峰駅間は平日のみの運行となりました(従前は平・土)。カーリット線の末期なんて、なくしますよといわんばかりのダイヤでしたからねぇ。

おまけ
2000.1.22 日本カーリット
どこからともなく、ニワトリが現れました。


綾52 海老名駅〜相模大塚駅
綾72 大和駅〜相模大塚駅〜綾瀬車庫

2000.5.14 さがみ野駅入口

1999年10月、綾瀬営業所管内で路線の再編成(路線改廃・運行ダイヤ変更)が行われ、それに併せて系統番号が付けられました。略号「綾」に1xが海老名駅〜国分寺台系統、4xが海老名駅〜小園系統、5xが海老名駅〜富士塚系統、綾7xは相模大塚駅系統などに分類されています。
綾52系統は、海老名駅からほぼ横浜・厚木線(厚木街道)上を通り、富士塚・飛行場正門を経由して相模大塚駅に至ります。また、綾72系統は相模大塚駅〜綾瀬車庫間は1986年、大和駅〜綾瀬車庫間は1997年より運行を開始しており、富士塚で厚木街道とわかれ綾瀬車庫に入ります。

綾瀬市蓼川地区の道路整備完了に伴って、2000年5月29日より飛行場正門〜相模大塚駅間は厚木街道(さがみ野駅入口)からこの道路を通る経路に変更され、併せてこの区間に「蓼川一丁目」「蓼川自治会館」バス停が新設されました。綾71系統(相模大塚駅〜飛行場正門・基地内)は従来どおり、さがみ野駅入口経由です。

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